Adobe Illustrator 88英語版と、最初の日本語版1.9.6リリース当時の想い出

温故知新。先週末に開催されていたイベント「24時間 Illustrator 愛(Ai)はクリエイティブを救う」のついでで、いろいろ振り返ってみました。

私が初めてAdobe Illustratorを触ったのはバージョン1.9.6日本語版で、マシンはMacintosh II、モニタは小さな13インチでした。最初の和文フォント搭載PostScriptプリンターLaserWrier NTX-J込みで300万円以上したので、当時導入を英断した(福岡で2社目!)デザインプロダクションの社長には今も感謝しています。

Adobe Systems社はもちろんApple社の日本法人もなく、販売代理店はいずみや(現.Too社)でした。当時は、DTP (Desk Top Publishing) というフレーズが盛んになっていく黎明期で、環境すべてが激変していた真っ直中でした。


Illustratorの最初のバージョンである88(もちろん英語版)は、ソフトウェアのローカライズ(日本文化化)に携わることになってから使う機会がありましたが、OSやマシン性能の限界もあり、とにかく日本語環境は何もかもが不利でした。

込み入ったパスを扱うとすぐにフリーズするので、漢字TALK(当時のMacintosh用日本語OS)の一部を英語版に差し替えてメモリ消費を抑えたり、日本語環境でエラーになる部分は英語OSで再起動せざるを得なかったり、英語版にないリソースを追加しなければならないところがあったり。

当時の競合ソフトウェアAldus FreeHandとの違いを試すにも、OSがシングルタスクだったために起動できるのはどちらか一方ずつ。Illustratorのパスを立体化する3DソフトウェアDimensions(今のDimension)も、英語のサンプルファイルが日本語環境では満足にレンダリングできないようなことも、決して珍しくありませんでした。

何より大変だったのは、情報のやり取りがとても困難だったことです。インターネットが一般に開放される以前なので、Adobe本社との連絡はFAXやCompuServe(パソコン通信)のスレッド。プログラムやマニュアルの受け取りは、Federal Express(FedExになる前の)で送られてくるCD-ROM。AppleLinkでいろいろな最新情報を追いかけるにも、高額な国際通信料が掛かっていたので、USで発売される紙の雑誌が貴重な情報源でした。当時、Adobe社はシリコンバレーのMountain Viewにありましたが、見晴らしよくマウンテンなどビューできるはずもない、まるで青木ヶ原の樹海の中でガイド無しのままサバイバルしていたような日々でした。

数々の困難はあっても、混沌とした時代特有の熱気に溢れていたことは間違いありません。ドットインパクトプリンターImageWriterのヘッド部分を自分でやすりで削ってまでディテールを印刷しようとする人や、コピー機のトナーをLaserWrierのトナーカートリッジに無理矢理入れて漆黒のブラックを実現する人、英語版ソフトウェアを勝手にローカライズしていたのがきっかけで正式な日本語化に繋がった人。『そんなオモチャでプロの仕事ができるはずがない』という冷笑には耳を貸さない、ハック精神溢れるロック野郎が常にいました。その後のビデオのノンリニア編集にしても、Webサービスやスマートフォンアプリ開発にしても、いつも同じ構図です。

Illustratorのパッケージやスタートアップスクリーン、アイコンに永らく使われていたのは、有名なボッティチェッリの絵画『ヴィーナスの誕生』の女神。

愛でクリエイティブが救われてきたかどうかはよく分かりませんが、彼女は、印刷DTPそのものの誕生を象徴していただけでなく、現代のDirect Text Publishingに至るまで、見守り続けてきてくれた存在だと思います。

スタートアップスクリーンから去った今も、あの物憂げで官能的な表情が今も脳裏に浮かびます。決して愛してやまない訳ではなく、泣かされたことを悲劇だとも思わないのは偏愛でしょう。これからも、作り手の近くに寄りそってくれる幸運の女神であることを願っています。

さて、思い出話をしたら、次へ!


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