平和式典で流れた戦慄のメロディー

コンテンツの善し悪しは、依頼主にその審美眼がなければ判断できないということと、評価されない成果物では、多くの人々の共感を呼ぶことなどできないという、当たり前のことを改めて考えさせられたエピソードがあります。あれは、本当にいたたまれなかった。


数年前、とある戦没者慰霊祭に出席した時のことです。その式典は戦後からずっと毎年続いていて、縁のある私も、ここ数年は可能な限り平日でも参加しています。
その年は、どうやら鎮魂をテーマにした新しいオリジナル曲が演奏されるようで、司会者がそのことを最初にアナウンスしました。列席者が一緒に歌える(!)ようにと、ご丁寧に歌詞カードまで配られました。関係者の縁で楽曲の制作を依頼されたという作者は、教育関係のセミプロのような人だという話でした。

イントロの不思議な旋律を聴いた瞬間、嫌な予感がしました。その曲が、何とも奇妙なメロディーに仕上がっていたのです。荒々しい不思議なテンポに、ありがちな言葉が並ぶ歌詞。悲しみや怒り、嘆きが表現されているでもなく、音楽制作の経験がない私でも分かるほど、違和感ばかりが耳に付きました。悲しいかな『できない人がとてもがんばってしまった、自分の嫌いな食材で作られた料理』、『間違って入ってしまった、常連だけのカラオケスナックだけの定番曲』のような…。

これが、単に私の個人的な好き嫌いの問題なら、それはそれでいいんです。『自分の趣味ではないけれど、多くの人は認めるんだろうな』というのはよくある話。
ただ、その場にいた多くの人が、はっきりと『何か、変…』と感じながらも、誰もそれを指摘することができず、不思議なメロディーに乗った悪魔の呪文をモゴモゴと口ごもりながら唱え続けさせられるその光景は、新興宗教の一団のようでした。予感(悪寒)は的中したものの、録画・録音しなかったことだけが悔やまれます。怖いもの聞きたさで反芻できたのに。


後から考えてみましたが、これはその曲を作った個人のスキルやセンスだけが問題ではなく、むしろ誰の責任にもなり辛いところが、実に罪深いのです。

元々、依頼主に善し悪しを判断できる基準やセンスが無ければ、出てきた成果物を評価できません。平和や善意、熱意、想い、願いといった「タグ」が付いている場合、変な成果物のおかしさを指摘するのは憚られがちです。さらに、知り合い繋がりで報酬が発生していないなら、ますます指摘しづらい。折角、作ってもらった・作ったサンクコストもあります。
予定調和で言い値買い取りになってしまう、同調圧力の呪縛ほど辛いものもありません。批評の対象になりにくい「正しさ」が基準になると、不発弾並みに処理が面倒になるものです

ある程度の質を求めるには、まず絶対量が必要です。ただ、音楽制作が特殊なのが、テキストやグラフィックス、プログラムなどと違って、ラフやモックアップで確認できません。
自分が制作を依頼する立場だったら、どうしていただろう?縁がある人に限定せず、クラウドソーシングかクラウドファンディングか?発注・選定は、制作委員会方式?歌詞だけは、縁者に依頼するのはアリかも…

そんなことを妄想する暇もなく、『折角なのでもう一度』という司会者のまさかの地獄の掛け声と共に、重苦しいリピートが始まってしまいました。一体、何が「折角」なんだ。うっかり、列の内側に座ってしまっていたため、逃げることもできません。魂が安らぐどころか、恥ずかしさ混じりのいらだちで、心の中でスキップボタンを激しく連続タップしていました。スキップできなかったのは、自分では不祝儀を包んでいない、無料アカウントだったからでしょうか。

別の意味で、『もうこんな思いは二度としたくない・させたくない!』という、その場に無言の強い連帯感が生まれた、晴れた7分咲きの桜の日の出来事でした。なお、翌年以降、その曲が流れることは二度とありませんでした。