グラフィックデザイナー 戸田ツトム氏の追悼に代えて

グラフィックデザイナーの戸田ツトム氏の訃報を目にした。この人の名前を目にしたのは本当に久しぶりだったが、こんな形での再会になるとは思いもしなかった。しばらく迷った揚げ句、埃とカビ臭い段ボール箱を開けることにした。何冊かの墓標を眺めて、しばし昔の思いに耽る。

1990年代前半、私は、福岡のとある出版社に勤務していた。出版社とはいえ、10人にも満たない小さな会社で、組織というより、今でいうなら得体の知れない怪しいスタートアップのようなところだった。
この会社が発行していたのは、DTP(デスクトップパブリッシング)をテーマにした専門雑誌。ようやく日本でも、コンピューターを使ったデザインワークや、マルチメディアコンテンツの制作と販売が、ビジネス面でも本格化していこうかという黎明期で、それを自ら実践して作っていた。いわば、人体実験と自転車操業の繰り返し、ブラックでヤクザ。ただ、なぜかよくわからない意識の高さと情熱だけはあった。

まだ日本では、パーソナルコンピューター用ソフトウェアやハードウェアの販売代理店も、大手に限られている時代。主にシリコンバレー周辺のメーカーを直接取材し、それを記事として日本国内に紹介したり、販促ツールを作ったり、ローカライズ(日本語化)やプロモーションをサポートしていた。駆け出しの若造も、グラフィックデザインやイラストレーションだけなく、ページレイアウト、記事の執筆、グラフィックソフトウェアのレビュー、写真編集など、いろいろな仕事に関わるようになっていた。


戸田さんには、この雑誌の表紙や、中トビラのデザインで関わっていただいていた。手元に残っている何冊かをめくったところ、一番古くて1990年には、もう奥付に名前が入っている。一体どうやって、東京のデザイナーを、地方の怪しい零細組織が口説き落としたのか、今でも不思議でならない。ちゃんと、ギャラは払っていたんだろうか…

当時がどういう時代で、どんな取材をしていたか、ページをパラパラめくってしばし振り返る。
Apple Computer(現Apple)のCEOはJohn Scullyで、Adobe Systems(現Adobe)はJohn Warnock時代。Ted Nelsonやアスキーの塚本さんの姿も見える。DTMの未来を語るカシオペアの向谷さんは、まだ痩せたイケメン。

買収される遙か前のMacroMind社は、Director Interactiveで、CD-ROMとマルチメディアの未来を謳っていた。Pixarという新しい会社は、3DレンダリングツールのRenderManをMac用に移植していたが、VideoToasterの方が派手で面白そうだった。どうやらVirtual Realityというのも凄そうだが、日本語のTrueTypeフォントはまだ噂レベル。モノクロ広告ページでは、Macintosh SE/30のセット80万円(もちろん消費税なし)に「特価」の文字が躍る。

福岡では、.Tooになる前のいづみやが、Macintosh IIと13インチカラーCRT、LaserWriter II NTX-Jに、Illustrator日本語版のミニマムセットを、新車1台ぐらいの値段でデザイン事務所に販売していた。天神に新しくできる黄金で八角形のIMSビルに、Apple Centerができることも話題になっていた。

戸田デザインのスタイリッシュな表紙を始め、雑誌の全ページのQuark XPressデータを出力するのには、毎回、長い時間が掛かった。レイヤー機能のないPhotoshop 1.0英語版で編集していた、SONYのデジタルカメラMavicaで撮った写真も、印刷するまで仕上がりが本当にわからなかった。当時店舗も限られていた出力センターに、昼夜を問わず連日詰めるあまり、窓口スタッフに間違われたこともあった。


無茶苦茶な制作現場とは裏腹に、戸田さんが生み出すデザインは、無機質でスノッブ、スタイリッシュで都会的。余白を活かした、禅の世界のようなテイストは一貫していて、外国人関係者にはウケがよかった。彼が使っていたのは、IllustratorよりFreeHandだったと記憶している(少なくとも、私が知る時期までは)。StrataVision 3Dを使ったイラストにもチャレンジしたり、新しいツールやメディアにも意欲的だった。その後も、戸田さんが手がける本や雑誌を手に取ったり、目にすることも何度かあったが、自然と、見た瞬間に戸田さんだとわかる記号になっていった。

今、改めて見れば、ちょっとした懐かしさすら感じるデザインだが、正直なところ、戸田さんのデザインワークをどう評価したものか、実は今でもはっきりしない。『凄い』とか『素晴らしい』とか、何と表現していいかよくわからないのだ。先輩やロールモデルだと捉えたこともないが、好き嫌いや嫉妬、憧れ、崇拝などとは違う、『体温とは無縁の、自分からは遠い存在』のように思えるのだ。それは、戸田さんが毎回作り出していた、あのまるで禅の世界のようなビジュアルを想起させるし、雑誌の奥付でたまたま名前が並んでいたものの、話をする機会すらなかった距離感にも通じる。

そう。残念ながら、戸田さんとは、直接、一緒に何か仕事をしたような記憶がない。編集でも営業でもなかった私は、事務所に電話もFAXもしたことがなかった。もちろん、インターネットはもちろん、個人のメールアドレスもなかった頃。ただ何となく、まだ周囲に何も施設がない幕張メッセで、日本で初めて開催されたMACWORLD Expo/Tokyoに出展した91年頃、ブースで軽く挨拶したり、名刺交換ぐらいしたような気もするが、記憶があやふやだ。


冒頭の会社の悲惨な末路もあり、「戸田ツトム」の名前を見ると、複雑な思いが入り交じる。微妙な縁と距離感の故人を、十分に追悼することができない私にできることといえば、こうして表紙を眺めることぐらいだ。そう思うと、すべての表紙がまるで静かな墓標のように見えてくる。

グラフィックデザイナー戸田ツトムは、当時のテクノロジーとテクニックを駆使して、自己表現を極めた人だった。それまでは裏方だった、『コンピューターでデザインをする仕事』が世の中に存在することを、当時の出版やデザイン業界、それを目指す若者に示してくれた。説明不可能な希望と情熱、混沌に溢れていた、クリエイティブの世界の間口を広げてくれた一人だ。物静かでありながら、好奇心旺盛な様子の戸田さんとは、本当は、直接いろいろ話してみたかった。過去の想い出ではなく、今とこれからの未来を。