語り部たちは いつの間にか物語を最適化し過ぎていないか?へのヒント

作家と詩人が語る、朗読と対話が持つ言葉の力

一つは、敗戦記念日の8月15日(水)に放送されたラジオ番組『高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」』だ。作家の高橋源一郎氏が、詩人の伊藤比呂美さんと話をしながら、向田邦子『ごはん』、野坂昭如『年老いた雌狼と女の子の話』、小松左京『戦争はなかった』、石垣りん『石垣りん詩集』の一部を、ゲストを交えて朗読しながら紹介していく。

小説やエッセイとして過去に書かれた文章を、リアルタイムに人の声で聞くことで、まるで自分がそう感じたことのように受け止められるようになる。口伝ならではの言葉の力によって、他者が経験したことが、自分の身体の内側に入ってくる。番組を進める作家と詩人本人たちが、そのことを改めて感じていたのが新鮮だった。

Wenders監督が『ベルリン・天使の詩』で伝えたかったこと

もう一つは、映画解説者の町山智浩氏による、映画『ベルリン・天使の詩』の詳しい解説だ。この作品をまだ観ていない人は、以下の解説を聞く前に、ぜひ観てほしい!

この作品で登場する天使は、記憶と記録のアーカイブとしての図書館の機能を果たす。また、語り部としての古代ギリシャの詩人ホメロスが、暗示的に登場する。
作家という立場の人たちは、物語を作って文章に認める。それがメディアで複製されるようになり、広く配布されることが可能になった反面、ノンリアルタイム・非同期型のコミュニケーションになってしまった。

一方、語り部は、あくまでもストーリーテラーであり、物語の作家ではない。リアルタイム・同期型のコミュニケーションとして直接目の前の人に語り掛け、そこで対話が生まれる。単なる事実の羅列ではなく、物語を自己体験として敢えて「演じる」ことで、時に、それを受け取った人の希望や救いにまで昇華する。これはまさに、先のラジオ番組で語られていたことに通じる解説だったのだ。

常に揺らいでいる自分自身が新たな物語の一部に

ストーリーに耳を傾けているとき、聞き手である自分自身も、実はそこで繰り返される(もしかするとほんの少しだけ新しい)ストーリーの一部になっている。自身を媒体としてメッセージを伝える役割は、まさにメディアだ。

当事者本人の語りがどれほど最適化されていようと、聞き手である自分自身が常に変わっている以上、両者の関係には常に揺らぎが生じている。今夜聞く話は、明日にはまた違ったものとして感じられる。物語を語り継いでいく人が当事者でなくても、最初から抱えている、どうあっても当事者にはなり得ない空虚こそが、聞く人が自分事としてかかわる余地なのだ。

一見、フォーマット化されてしまっているような話でも、違う角度から光を当てたり、小さな疑問で少しだけ揺さぶってみる。自分なりの解釈を吟味したり、時に、新しく掘り起こされた記録を参照する。影になっていたり、欠損した部分を立体的に補完していく。語り部と対話を繰り返していく中で、自然に物語が活き活きと動き出す。そしていつの間にか、語り手・聞き手の双方が当事者になっていく。人を動かすのは、記録ではなく、いつも感情であることに変わりはないのだ。

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