U2@さいたまでオリジナリティーを考えた

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U28年ぶりのU2ジャパンツアーも終演、さいたまスーパーアリーナへ行った。この「Vertigo Tour」はNew Yorkで4ステージ見たのだが、演出がかなり割り引かれていることを感じた。

小さなご褒美を用意することは、モチベーション維持には効果的。「トキオ〜 !」「イェーッ !(…ここ、さいたま〜)」。
このバンドは、当たり前にロックンロールを歌っているし、演奏しているけれど、実はかなり「言葉」や「文字」による表現が多いバンドである。自分たち自身や取り巻きの情報を含めて、バーバルコミュニケーションの割合の多さは少々異常とすら言える。

そこで、ちょっとした日本語でリップサービス・ご当地フレーズでも聞けば、ああ、奴らもオトナになったんだなぁとも思う。しかし、オリジナルのメッセージを分かりやすく伝えるために翻訳して仕込みができているメッセージは表示できるけれど、リアルタイムでは微妙に伝わらないことが割り引かれている感じは否めない。
そもそも、音楽や演出の機材と輸送コスト、会場や消防法の規制などで、海外メジャーアーティストの日本公演は、そのままでは実現はできないと聞く。

人に何かを伝えるということは、本当に難しい。奥が深い。
自分の知識のつたなさと、表現・演出の未熟さばかりを思い知る。ただ、別にそれはそれ程ショックではなく。難しいことを簡単なことにたとえること、ローカルな文化に変換することばかりが、相手により良く理解してもらえる手段ではないという事実。それをはっきりと意識させられたことが、ボディーブローのようにじわじわ来る。

New Yorkという一次ソースに近いところを見ていたことで、初めて違いを理解できた。
迫害や人権、宗教観なんて無縁な日本人に国連憲章を見せて何を訴える?「coxist」をわざわざ「共存」と表示したところで、何を言う?「Mysterious Ways」のベリーダンサーが舞妓になるのもねぇ。
ステージ以外の活動も含めて、彼らのアクションをショービズの枠を超えた効率と持続性を考えた経営マネージメントとして見たり、エキサイティングなビジネスプレゼンテーションの1つとして見ると、また興味深かったりする。
世界規模の問題解決のために、もはや個人の善意や一時的な高揚感に依存するには無理がある。だとしたら、社会の仕組みとして…何てことを考えているとしたら、この国では間違いなく「ほっとけないキャンペーン」の二の舞だ。

メッセージの変換と言いながら実は換骨奪胎なんじゃないかと、周りの喧噪とは裏腹に冷めていく。それでも、「俺にやらせろ〜っ!俺ならもっと上手くトランスレートできる〜っ!ローカライズできる〜っ!」と熱く感じる自分と、奇しくもYさんが吐き捨てた「オリジナルを見てぇんだよ!」という台詞は、実は相反するものではないのかも。
共存と孤立、共有と独占、共感とすれ違い。その両方を知りたい私。

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