U2@さいたまでメッセージのローカライズの難しさを考えた

8年ぶりのU2ジャパンツアーも終演、さいたまスーパーアリーナへ行った。小さなご褒美を用意することは、自分のモチベーション維持には効果的。『トキオ〜 !』『イェーッ !(…ここ、さいたま〜)』。この「Vertigo Tour」はNew YorkのMadison Square Gardenで4ステージ見たのだが、演出がかなり割り引かれていることを感じた。そもそも、音楽や演出の機材と輸送コスト、会場や消防法の規制などで、海外メジャーアーティストの日本公演は、そのままでは実現はできないと聞く。

このバンドは、ロックンロールを歌い曲を演奏しているけれど、実はかなり言葉や文字による表現が多いバンドである。自分たち自身や取り巻きの情報を含めて、バーバルコミュニケーションの割合の多さは少々異常とすら言える。

U2@さいたまスーパーアリーナ
U2@さいたまスーパーアリーナ

Bonoが、ちょっとした日本語でリップサービス・ご当地フレーズを口にするのを聞けば、『ああ、Bonoが日本の学生服を着てステージに立っていたことがあっても、英語が通じないから日本はイマイチと思っていた彼らも、随分とオトナになったんだなぁ』ともしみじみ感じた。しかし、オリジナルのメッセージを分かりやすく伝えるために、翻訳して仕込まれるメッセージは、スクリーンには大きく表示できても、生きた言葉としてリアルタイムでは微妙に伝わらないことがある感じは否めなかった。


人に何かを伝えるということは、本当に難しい。奥が深い。
自分の知識のつたなさと、表現・演出の未熟さばかりを思い知る。ただ、別にそれはそれ程ショックではなく。難しいことを簡単なことにたとえること、ローカルな文化に変換することばかりが、相手により良く理解してもらえる手段ではないという事実。それをはっきりと意識させられたことが、ボディーブローのようにじわじわ来る。

New Yorkという一次ソースに近いところを見ていたことで、初めて違いを理解できた。迫害や人権、宗教観なんて無縁な日本人に国連憲章を見せて何を訴える?「coxist」をわざわざ「共存」と表示したところで、何を言う?「Mysterious Ways」のベリーダンサーが舞妓になるとしたら…いやいや、まさか。
ステージ以外の活動も含めて、彼らのアクションをショービズの枠を超えた効率と持続性を考えた経営マネージメントとして見たり、エキサイティングなビジネスプレゼンテーションの1つとして見ると、また興味深かったりする。世界規模の問題解決のために、もはや個人の善意や一時的な高揚感に依存するには無理がある。だとしたら、社会の仕組みとして…何てことを考えているとしたら、この国では間違いなく「ほっとけないキャンペーン」の二の舞だ。

メッセージの変換と言いながら実は換骨奪胎なんじゃないかと、周りの喧噪とは裏腹に冷めていく。それでも、『俺にやらせろ〜っ!俺ならもっと上手くトランスレートできる〜っ!ローカライズできる〜っ!』と熱く感じる自分と、奇しくも同行のYさんが吐き捨てた『オリジナルを見てぇんだよ!という台詞は、実は相反するものではないのかも。

共存と孤立、共有と独占、共感とすれ違い。その両方を知りたい私。そしてそれは、13年後にもまた感じることになるのでした…