人知れぬ山中にひっそりと置かれた伊藤野枝の墓参りをしてきた

今年も、秋の彼岸には少し早い9月16日、伊藤 野枝の命日に彼女の墓参りへと向かった。去年よりは、彼女のことを少しは知ることができているつもりだ。しかし、知れば知るほど、今の時代が100年以上前の空気に近づいてるように思えてならない。

伊藤 野枝というアナーキストのこと

伊藤 野枝(ノヱ)のことは、今でも詳しく理解できているわけではないけれど、彼女について中途半端に聞きかじっていたことはいくつかあった。

例えば、明治から大正に掛け、女性の権利拡大を主張して出版活動に携わった、アナーキスト(社会主義者・共産主義者)だったこと。思想家であり作家の大杉 栄と幼い甥共々、陸軍軍人の甘粕 正彦によって、関東大震災後の混乱に乗じた「赤狩り(社会主義者狩り)」で惨殺されたとされる人物、ということぐらいだ。

作家の瀬戸内 寂聴氏や、高橋 源一郎氏(祖母が甘粕の従兄弟)の話、映画『福田村事件』(2023年、森 達也監督)などを通じて、断片的に見聞きもしていた。

伊藤野枝 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%87%8E%E6%9E%9D

美は乱調にあり/瀬戸内 寂聴|岩波現代文庫 – 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b279053.html

映画『福田村事件』公式サイト
https://www.fukudamura1923.jp/

当時の新聞・雑誌を賑わせた彼女のことは、歴史資料にまとめられているだけでなく、小説や映画の題材にもなっているので、探せばすぐにいろいろな情報が出てくる。

1895年(明治28年)、寒村である今宿村に生まれ、厳しい幼少期を過ごす。地元で結婚させられた夫を捨て、学んでいた女学校に勤務していた教師の辻 潤の元に逃げ込んで結婚。思想家・評論家であり、女性解放運動を実践していた平塚 らいてう(らいちょう)が編集長を務めていた雑誌『青鞜』に触発され、編集部に熱い思いをしたためた手紙を送って押しかける。1915年に平塚から編集を引き継ぎ、実質的な主宰者に。しかし、当時の検閲・弾圧もあったとはいえ、結局、編集・発刊作業を放棄して休刊に追い込んでしまう。

彼女は、封建的な社会制度への批判や、女性の自立と人権獲得などに声を上げ続けた人物であった。その一方で、社会主義者である大杉 栄との不倫のさなか、その妻、愛人との複雑な四角関係は、新聞・雑誌を賑わせた。

そんな彼女が、大杉と甥の橘 宗一と共に、1923年(大正12年)9月16日に甘粕事件によって殺害され、波乱の生涯を閉じる。遺されたのは、七人の子だった。遺体は裸にされ、畳表にくるんで憲兵隊の麹町分隊構内の古井戸に投げ込まれ、本人かどうか判定できないほど腐敗していた。

わずか28年の人生にしては、彼女の経歴は過激で濃密だ。悪女や反社会的人物と評された彼女は、現代なら間違いなく、ソーシャルメディアで賛否両論の真っ只中に放り込まれただろう、あまりにもスキャンダラスな存在だった。

墓参を拒むかのような周辺環境

私が、そんな人物の墓参りにわざわざ行く理由は、自分でもはっきりとはわからない。彼女は縁戚でもないし、特に信奉しているとか、アクティビストとしての活動を全面的に評価しているわけでもない。

一つ興味があったのは、彼女の出身地が、福岡市西区今宿(旧今宿村)という点だった。自分が暮らしている場所からそう遠くない場所に、どうやら墓もあるが、その存在はほとんど知られていないらしい。

惨殺された歴史上の人物が地元にいて、なぜその存在を隠されるような墓しかないのか?同じ福岡市内で、行けば半日掛からずに行き帰りできるので、機会があれば訪れてこの目で確かめてみたい。そういうわけで、去年に続いて今年も命日の朝、墓まで脚を伸ばすことにした。

伊藤 野枝の墓は、簡単にはアクセスできない福岡市西区今宿の山手の場所にある。今宿は、福岡市の西の端にあり、隣接する糸島市の糸島半島の入口。福岡市営地下鉄に乗れば、JR筑肥線にそのまま接続しているので、天神や博多からも30分掛からずにJR今宿駅に着く。問題はその先だ。

JR今宿駅
福岡市営地下鉄に直結しているので、JR今宿駅までの移動はスムーズ。

実は、墓といっても石がただあるだけで、周囲も道も整備されていないらしい。そのため、Googleマップでも簡単には探せないし辿り着けなさそうだ。ただ、ありがたいことに、地理座標をコメントで残してくれている人がいて本当に助かった。

注:この場所は山林を所有する地元の方の私有地と思われます。案内板も整備された道もありません。訪れる場合は、火気を使わない、(場合によっては、前の訪問者が残していった)ゴミや供花の包装を持ち帰る、大人数で行って騒がないなど、良識と節度ある行動をお願いします。

風も嵐もない薄曇りの日とはいえ、日中はそれなりに暑い天気になりそうだったので、朝7時台から移動した。前夜に買っていた花と酒、水を持って西を目指した。

時間帯は、まだ通勤・通学の人たちが忙しく移動している朝。何とか福岡市営地下鉄経由でJR今宿駅までは辿り着けても、この辺りはとにかく公共の移動手段がない。ちなみに、「バスの街」福岡市の周辺部なので、西鉄バスの勢力圏からは外れている。唐津方面とつなぐ昭和バスも海沿いを走るので、山側への移動には使えず、本数も限られている。

今宿IC西側の今宿谷交差点
福岡市内から西の唐津方面に向かう道の交差点。上に走るのは福岡都市高速道路。目指す目的地は、ここからは見えない、10時方向の雑木林。

去年のことを振り返ると、ちょっとした想定外のトラブルもあり、一つ先の九大学研都市駅から、残暑が厳しい夏の朝に約25分の徒歩を決行することになってしまった。「野枝ならこれぐらい平気で歩くさ」と、よくわからない鼓舞と覚悟と共にスタート。キャップにサングラス、ハーフパンツ姿という不審者は、幼稚園の前では警備員から明るく警戒混じりの挨拶をされた。当日は、今宿駅周辺で慰霊祭が執り行われるらしいが、そちらは見送ってとにかく現場へ。

Googleマップで座標を把握していても、墓石まで辿り着くのは一苦労だった。農道を上って近くまで来ているはずが、どこにもそれらしい場所が見当たらない。藪の中をあちこち歩いている間に、無駄に蚊に刺される始末。あんなに沢山の蜘蛛の巣の洗礼を浴びたのも久しぶりだった。怪しげなキノコ類もあちこちで目に付いた。周囲を何度も探し、思い切って道を外れて、小高くなった右の土手を上ってやっと辿り着いた。

蜘蛛の巣とキノコ
去年は、自然から離れている都市生活者が、分かっていてもいろいろなトラップの餌食に。

幸い今年は、去年ほどの猛暑ではなかった。バイパス沿いの住宅地を抜けると、周りは田畑が拡がる。地元の小学生たちが育てているらしい稲穂が美しい。トンボがちらほら飛び、ヒグラシが賑やかに鳴いている。緑の稲穂を背に咲く紅い彼岸花のコントラストが鮮やかだ。山手の道を上ると人家は途絶え、貯水池がいくつか点在し、監視カメラが目に付く。

田畑を抜けて進む山道
慰霊とはいえ、デスクワーカーにとってはちょっとした遠足を兼ねたワークアウト(まだ福岡市内)。

去年、一度来ているので、道は何となく覚えている。何度か角を曲がりつつ、貯水池脇を抜ける。道の右側に現れた、車が一台入れるほどのスペースから入って、道なき斜面をさらに上る。

駅から徒歩20分弱で到着。二度目の訪問でも、辿り着いた墓石を目の前にすると違和感が戻ってくる。周囲の環境に似合わない、墓石にしてはやや大きな自然石が、藪に覆われた斜面に佇んでいる。大きさは、幅 1.8 × 高さ 1.0 × 奥行き 1.0 mといったところで、重機を使わなければ動かせそうにない。表面には何の文字も刻まれていない。周囲を見渡しても、墓碑銘やそれらしいプレートも何もない。明らかに誰かが意図的に運んだはずなのに、ただ置いただけのようにしか見えない。

伊藤 野枝の墓とされる石
結構な大きさの石は、周囲からは明らかに孤立している。墓と言われれば、そう見えなくもないが。

去年も誰かが訪れて時間が経った形跡があったが、今年は造花が置かれていた。献花して墓石に水を注ぎ、日本酒のカップを開けて捧げる。安全のため、蝋燭や線香など火は使わない。花をくるんでいたフィルムや、カップの蓋類もちゃんと持ち帰る。サングラスを外し、斜面と落ち葉で不安定な地面に腰をかがめ、静かに手を合わせる。鳥たちのさえずりと、9月半ばというのに蝉の声、遠くから都市高速のくぐもった車の音が続く。自分が踏みしめる落ち葉と小枝の軋む音が重なる。弾んでいた息が落ち着きを取り戻す中、汗が静かに肌を流れ続ける。

石は、天頂部分から縦に亀裂が入っていて、三分割されている。まるで犠牲になった3人を弔うかのような姿だ。それでも、ただ存在感だけがある粗野な石は、野枝の墓らしいとも思える。

今津湾方面を臨み、3つに割れている石
今津湾方面を臨み、3つに割れている石。墓と言われてもわからない。

帰りは、墓石があった場所を振り返りながら海へ下り、北へと向かう。今年もやっぱり藪蚊に刺されたらしい、頬と耳たぶを掻きながら歩く。

野枝の墓を初めて訪れた後もしばらく、いろいろなことを考えていた。なぜ、あんなに人を寄せ付けない墓石なのか?私有地の藪の中にひっそりと、野枝の墓石だけが置かれている理由は?案内板も全くなく、最後の上りは獣道ですらない。墓碑銘も銘板もなく、まるで故人の存在すら拒絶するようではないか。遺骨もあそこにはないとしたら、どこに埋葬されたのだろう?

映画『風よ あらしよ 劇場版』を先に観て

そもそも、彼女の墓を訪れる気になったきっかけは、一本の映画だった。彼女を主人公にした映画『風よ あらしよ 劇場版』を去年8月末に見る機会があった。この映画は、2024年2月に劇場公開されていたらしいが、当時はそのことを知らなかった。市民主催の上映会が福岡市内で開催されるタイミングで参加してみた。

『風よ あらしよ 劇場版』予告篇

予備知識が乏しかったものの、見終わった時の素直な感想は、『現実を描くエグさが足りないのでは…?』という印象だった。後から調べて知ったのだが、この「劇場版」には原作本とNHKテレビ版があったらしい。確かに、セットなど予算が掛かっている作りや演出だったし、想像するに、NHKの地上波で可能な表現の範囲に制限されていた雰囲気だった。

綺麗すぎる演出ではないかというこの印象は、その後、原作小説を読むことであながち間違いではなかったと感じた。かといって、生々しくリアルに描かれていたら、吐かないまでも全身から汗や涙を噴いて気を失っていたはず。それぐらい、陰惨な歴史的事件だったことを後から徐々に知ることになる。

字幕付きのバリアフリー上映だったので、音だけでは判別し辛い当時特有の用語や言い回しも、字が充てられることで理解できた。また、画面に登場するが誰なのか音声では説明されない人物にも、しっかり名前が表示されていた。この映画は、機会があればまた見直してみたい。

原作小説『風よ あらしよ』も後追いで読んだ

去年、映画を見て墓参りをした後、遅ればせながら今年に入って、原作小説の『風よ あらしよ』(2020年、村山 由佳 著)に手を伸ばしてみた。文庫版では上下巻という、なかなかの大作だった。

風よ あらしよ | 集英社 文芸ステーション
https://www.bungei.shueisha.co.jp/shinkan/kazeyoarashiyo/

史実をベースにした創作だと言うことは理解しつつ、豊かな風景描写や感情表現は、まるでドキュメンタリーのカメラが捉えたシーンを追っているかのよう。昔、自分がそうしていたように、あちこちに本を持ち運んでは、欲望のままにページをめくり続けた。先に読んでいた別の本を追い越して読み進めるほどに、引き込まれた。

野枝の炎のような情熱が印象的なのは当然だけれど、大杉 栄の情けない男っぷりも負けず劣らず。どこまでも身勝手で脇が甘い男は、存命で革命を成し遂げられたとはとても思えない。それは、自分のズルさや情けなさに重なるからだろう。それにも増して、甘粕 正彦大尉の暴力性に象徴される、当時の軍部や警察組織、社会の雰囲気は恐怖でしかない。また、警視庁官房主事として朝鮮人暴動の流言に関わった正力 松太郎の名前が何度か出てくるのも気になった。

原作で所々に感じられた逼迫感や緊張感、苛烈な暴力、貧しさ、汚さなど、そういった感情に訴え掛ける描写は、やはり映画ではあまり描かれていなくて、クリーニングされていた印象を改めて覚えた。

作中にはいくつも印象的な文章が並ぶ。葬儀のシーンでは、野枝が14〜15歳の頃に詠んだという歌が紹介されているが、まるで自身の運命と死を覚悟して詠んだかのような文章だ。

死なばみな一切のことのがれ得て
いかによからんなどとふと云う

代 準介は、野枝と時に反目し合いながらも、彼女を経済的・精神的に支え続けた叔父だ。彼は弔句をこう詠んだ。

枝折れて根はなおのびん杉木立

句中で、彼女だけでなく大杉の一字も読み込んでいたことが、一層涙を誘う。

関東大震災後の朝鮮人虐殺と甘粕事件は、第一次世界大戦後と震災後の混乱、ロシア革命以降の共産主義化(赤化)への恐怖が広がる中で起きた。これは、権力組織の暴力と、それを監視するどころか流言飛語を拡散したメディアの問題でもある。それらのことが、過ぎ去った歴史の一部だとは思えず、どこかで最近、自分がリアルに見聞きしたような気にさせられてしまうのだ。

歓迎できない複雑な地元感情と、NIMBYとしての墓

後から調べてみると、野枝の墓を巡るいろいろ複雑な事情が浮かび上がってきた。

麹町で惨殺された後、荼毘に付された野枝たちの遺骨は、静岡市の沓谷霊園で安置され、毎年墓前祭が執り行われていたらしい(100周年の2023年で終了)。分骨され、一部は福岡に持ち帰られたようだ。

今宿の墓がああいった状況なのも徐々にわかってきた。どうやら、野枝たちの活動を快く思わない地元の人々がいたらしい。彼女たちの自由奔放な行動に直接間接の被害を被ってきた人々が、恨み骨髄を引きずってきた結果なら、確かにわからなくはない。寺で弔われることすら拒否され、右翼団体が押しかけたとも読んだ。事件後当時、浜辺に建てられたという野枝と大杉の墓が現存しないのも、破壊・損壊された末のことだとも。

【糸島市】伊藤 野枝と糸島❼女性解放運動家 没後100年 | 糸島新聞
https://itoshima-np.co.jp/2023/10/16/itounoebotugo100_no-7/

昔は「触っても拝んでもいかん」伊藤 野枝の墓石ひっそり 福岡市、旧今宿村出身の女性解放運動家|【西日本新聞me】
https://www.nishinippon.co.jp/item/1090781/

103年前といえば約2〜3世代。今でも、彼女たちのことを快く思っていない地元民がいたり、言い伝えが残っていても不思議ではない。現代の利害関係者としては、現代の遠方の人たちが、女性解放運動の象徴として彼女を持ち上げるのは勝手だが、反体制の無政府主義者を郷土の英雄扱いされることには抵抗があるのだろう。今の自治体にしても、そんな人物にスポットが当たるのを公として支援はし辛い、政治的忖度もゼロではないように思う。

その点では、彼女の墓は残念ながらNIMBY(社会には必要だろうが、身近にあるのは困る迷惑施設)扱いされている印象を受けた。地元の人の好意や理解、または諦めによって、あの場所にひっそりと置かれているんだろう。

100年前の昔話だとは、どうしても思えない昨今

伊藤 野枝の生涯を追っていくと、どうしても100年以上前の昔話だとは思えない。社会の分断や排外主義、他者の敵視は、現実に今も起きているし、被害の事実を自作自演だと非難する声すらある。私が彼女の墓参りに行く気になった理由は、これかもしれない。

関東大震災の犠牲者追悼では、震災ではなく人為的に殺害された朝鮮人犠牲者たちを、小池東京都知事は無視し続けている。たとえ普段なら『十五円五十銭』と難なく言えるはずの自分でも、恐怖でスムーズに発話できなかったり怒りで拒否すれば、簡単に殺される側になるのは想像できる。実際、関東人が聞き慣れない言葉を喋る、沖縄や秋田、三重出身者も犠牲になったと聞く。

関東大震災をめぐる「朝鮮人が暴動を起こした」「虐殺はなかった」などの言説を検証 【ファクトチェックまとめ】
https://www.factcheckcenter.jp/fact-check/history/verification-kanto-earthquake-korean-claims/

そして、現代。自分の政治信条や愛国心、宗教観は、個人情報として名寄せされ、記録されていく。わざわざ国旗を買ってきて損壊しなくても、簡単にスパイ呼ばわりされる。

【独自】陸自情報部隊が「愛国心」など調査か 国内有識者ら対象に個人情報収集 数千人分、シビリアンコントロール逸脱も|熊本日日新聞社
https://kumanichi.com/articles/2016458

社会主義者や無政府主義者か日本人かどうかに関わらず、政権の意向に沿わない人間が粛正される。それは、現代ではより先鋭化しているし、ソーシャルメディアのタイムラインなんて、野枝たちを謀殺した甘粕大尉もどきだらけじゃないか。

私は、誰からも殺されたくないし、誰も殺したくもない。しかし、理不尽なことや不条理に声を上げて抵抗することを、アナーキストと呼ぶなら呼べばいい。暴力から逃げられないとしても、非力ながら最期まで抵抗し、闘ってやるつもりだよ。

いや、むしろ同調圧力に任せて、自分が暴力を振るう方になる可能性だって大いにある。何せ、103年前に虐殺に加担したのは「普通の市民」だったのだから。

「弱者としての自分事」として

その後、伊藤 野枝と同じように非業の死を遂げた金子 文子の存在を知り、彼女の映画『金子文子 何が私をこうさせたか』も観た。でも、私は決して、理解あるフェミニストなんかではないし、今さら女性ウケを企んだって仕方ない。彼女たちに興味を抱く理由はただ一つ、不条理な抑圧への抵抗は、完全に「弱者としての自分事」だからだ。

私は、ほとんどマジョリティー側に回ったことがない。外見や運動能力、学業成績、社会的地位が評価基準になりがちな雄のヒエラルキーの、下層もしくは外にしか居場所がなかった。毛繕いによる交流や群の中での役割分担を、はっきりもしくはのらりくらりと拒絶してきたので、私にはホモソーシャルな猿山での振る舞いが今でもわからない。

それでも、抑圧的な社会構造の少なくとも最下層ではない「日本人男性」という属性が最初から持つ特権を、それと知らずに甘んじて享受してきた。女性——特に、若い女性たちを初めとする社会的弱者たちに向けられる不条理に、抗議の声を上げてこなかった。もちろん、そんなことをすれば一緒に袋叩きにされるからだ。消極的(な振りをして実は積極的だったのかもしれない…)に加担してきてしまった、忸怩たる後悔は今もずっとある。それなのにまた、新しい後悔を自分自身で生み出し続けてもいる。

野枝の人生をいろいろ知っていくと、彼女の考え方や目指した世界には、必ずしも賛同できなかったかもしれない。というよりむしろ、私も彼女が憎んだ男側の一人として糾弾されていたはずだ。今も昔も変わらない、唾棄すべき男の一人である存在を認識して、独り勝手に居心地が悪くなっている。それでもなぜか、無名の墓に惹きつけられる。

『風よ あらしよ』というタイトルは、野枝が遺したこの言葉から採られている。

吹けよ あれよ
風よ あらしよ

今年も、興味本位なのか懺悔なのか告解なのか、伊藤 野枝の墓とされる場所を命日に訪れた。自分の歪な気持ちのように、ひっそりと隠され、不安定な場所に置かれた歪な石の前で、静かに目を閉じて手を合わせた。

当日、開放感溢れる海沿いのコワーキングスペースSALTへ移動して、この2年越しのやや陰鬱な文章をどうにか書き上げた。この日は夕方から、今津湾に吹きつける北風で、沖の白波と海風の音が段々と強くなった。それは、彼女の魂と精神が、弔ってもらったところで安らかになんて眠っていられない、と抗議する声にも聞こえた。

夕陽に照らされる長浜海岸と今津湾の波頭
SALTで書き終えて外に出ると、北風で立った波頭に夕陽が当たっていた。