
ここ数年、ずっと「遺書」を書き続けています。

といっても、『ありがとうございました』『すみません』『愛してました』…自分が関わった人たちへ、伝えておくべきメモとしての雑多なテキストを、ことあるごとに更新し続けているだけなのですが、これはまさに遺書。
年賀状が、年に一度の生存確認感謝祭だからでしょうか。年始の慌ただしさが一段落し、大人としての誕生日である成人式を経て、Martin Luther King Jr.の誕生日と続くこの時期は、そんな「誕生」とその裏にある「死」を意識するタイミングになっています。
ここ数日は、今年いただいた年賀状を整理していました。
ScanSnapで読んで、まとめてPDF化。調子に乗って、2012年にいただいた年賀状も読み込んでみました。画面の上で、初めてじっくり読み返したり、一体どっちがマスターなのやら。
Evernoteに保存、OCRで読んだりタグ付けは、したくなったらやるぐらいで保留していますが、ふと『こんな手間を経るぐらいだったら、最初から直接相手のクラウドサービスと共有して…』などと考えがち。
いやいや、この一見面倒臭いプロセスを経たメッセージこそが、会えない・会っている(つもりの)相手のことに少しでも意識が向く時間なのだな、というようなことも考えながら、紙と画面をありがたく眺めています。
そういえば、生存確認サービスに登録していたら、年末に初めて『生きてる?』のメールが来ていました。『はい、お陰様で何とか』。
今年も、いろいろな人と楽しく生存確認し合えるといいなと思っています。