COVID-19で現実の多面性が明らかになった今、それを受け入れどう生きていくか?

今年の2月、知人が結婚したので、披露宴の二次会に顔を出した。10年近く前、それもほんの一時期、仕事で付き合いがあった程度なのだが、呼んでもらったのでお祝いに出掛けた。まだ人の集まりが中止にならない時期で、2月にしては暖かい晴天だったのが本当に何よりだった。


新郎は、交通事故で高次脳機能障害を負っている。これは病気や事故などで、脳に治療しようのない障害が起きてしまい、記憶や空間認知ができなくなる状態だ。彼の場合、過去の記憶が消えていたり、日常生活のちょっとしたことがいろいろ覚えられないよう。iPhoneのリマインダやマップが、比喩ではなくリアルに命綱だ。

テレメンタリー2020 一命を取りとめた後に~見えない障害と向き合う ©九州朝日放送
一命を取りとめた後に~見えない障害と向き合う ©九州朝日放送

仕事では彼と縁がなくなってしばらく後、私に突然連絡が来た。この事故の件で相談を受け、詳しい状況を資料にまとめることになった。ヒアリングして、エビデンスを集め、いろいろな視点からの情報を入れて、資料にまとめて更新していく。仕事のスキルがトラブルに活かされてしまうのは、いつもながら複雑な心境ではある。

交通事故を起こして逃げた相手とその仲間は、嘘をついて被害者を騙し、逃走した。一生癒えない傷を負わされた被害者には、全く落ち度がない。当時は、今ほどソーシャルメディアが広く使われていなかったこともあって、結局、犯人(敢えてこう呼んでやる)が捕まることはなかった。結局、解決には貢献できなかった身としては、未だに忸怩たる思いだ。本人を差し置いて、私が激怒したところでどうにもならないのだけれど、天網恢々疎にして漏らさずであってほしい。

先日、この高次脳機能障害をテーマに、地元テレビ局が制作したドキュメンタリー番組が放送された。番組を見て、今まで知らなかった、医学的な側面や治療の難しさ、他の患者さんの苦悩など、いろいろな面を知ることができた。必ずしも外見からではわからないため、その当事者や周りを苦しめるらしい(AbemaTVにアップされるのは、テレビ放送よりも短尺版なのか…)。

その番組の中で彼は、検査や治療の長い年月を経て、『起きてしまったことは現実として受け止め、考え方を切り替えて生きていく』心境になったと語っていた。それは、別にテレビ向けのコメントでも何でもなく、本当にそう考えているんだろう。

ただ、それを聞いた私は、複雑な心境になっている。

今、新型コロナウイルスが猛威を振るう中、自分が置かれているこの状況もまた『生活を一変させるような重大なこと』そのままではないか。もちろん彼は、今の社会状況についてそう発言していたのでもなく、自分のことを話していただけなのだけれど、どうしても今の自分に重ね合わせて考えてしまうのだ。

『あの頃の日常に戻りたい』といった誰かの心情の吐露も、時々タイムラインで目にする。しかし、起きてしまっていることは、紛れもない現実だ。それでも、その正論を押しつけるには、あまりにも残酷すぎる。

人は、楽しかった過去の記憶をふと思い返しては日々の糧として、どうにか生き繋いでいく。大切な過去の思い出と一緒に、悲観や絶望の感覚も失われてしまうことの方がいいのか、わかるはずもない。
私はまだ、この状況を受け止めて、考え方を切り替えて生きていこうという心境になどなれていない。希望や期待よりも、静かな諦めと絶望の方が遙かに大きいままだ。


披露宴当日、久しぶりに会った彼は、私から見ても驚くほど回復していた。その事実は、本当に大きな希望なのだ。少なくとも私からは快方に向かっていると思えるプラス要因が、社会や地域との関わりなのか、周りの支援なのか、伴侶の愛なのかはわからないけれど、私なんかよりも余程立派でまとも(!)。というか、そもそも、よく私のことなんか思い出して、二次会に呼んでくれたなと、遠い親戚のおじさんのような気分で心から祝福するのだった。

今は、社会そのものが機能障害を起こしている。その中でいろいろな人が、外から見えるかどうかに関わらず、何かのマイナスやハンディキャップを抱えながらも、家族なり、友人・知人なりの社会的な繋がりを支えに賢明に生きている。ソーシャルディスタンシングが必要な今だからこそ、まるでシナプスのような線が、弱い個人同士を繋いでいる。
そんな重要な要素が完全に欠落している自分にとって、サバイバルは一つ上のハードステージになってしまった。これこそがマイドキュメンタリーだ。それでも、何とかこの現実を受け入れ、時には抵抗しながら、徐々に慣れていくしかないのだろうか。

とにかく、どなた様も末永くお幸せに。できれば、三次会でまたお目に掛かりましょう。