
週末の広告コピーの展示イベントにもインスパイアされ、時々やってみる思考実験の1つとして、ふと、こういうシチュエーションを考えてみました。『あなたの記憶に残るコピー(広告文章)を10点挙げてみてください』と言われてみた、と仮定してみます。さて、自分なら何を挙げるか。
まず古いところでサントリーのランボオやガウディ、パイオニアのカーステレオ「ロンサムカーボーイ」、新潮文庫の100冊もあったし…それにKEIRINのコピーも外せないし、最近ならあれも入れたい。
と、そんなこんなで、Googleで検索して本当にそうだったか答え合わせをしてみます。もしあれば、Googleでポスターなどイメージ検索、TV CMならYouTubeでヒットするかも…ところがここで、自分でも予想していなかった妙なことになりました。
あっさり、いろいろなアーカイブが検索できたものがある一方で、自分が覚えているはずのものがなかなか出てこない、見つけられないのです。
もちろん、凄くいい加減な記憶だったというほころびや、ことばの微妙な揺れや揺らぎは当然のこととして、なぜか1つのかけらもヒットしないのです。もしかすると、多くの人々に語られるほどの内容ではなかった、というのもあるでしょうが、まるで、最初からそんな広告は存在していなかったかのような非常に不思議な感覚です。
そしてもう一つのパターンは、広告のごく一部が変換されて記憶されているものでした。記憶の風景が年月と共に変化するかのように、いつの間にか、勝手に自分の中でアレンジしていました。しかも大半は、結局、言葉ではなく画像や音が記憶されている。日本で使われなかった(のかもしれない)広告に勝手に日本語訳をつけていたり、断片をつなぎ合わせて美化していたり、これまたいい加減。
これはまるで、写真ではなく、スケッチのようなもの。特徴的なことだけをクローズアップして、それ以外の重要ではないことがさらさらと抜け落ちている。それはオリジナルに忠実かもしれないし、全くのイメージの産物かもしれない部分もある。
正確なアーカイブだからいいとか、いい加減だから無意味だとかいう観点とは違う、自分の中の無意識のフィルタを通した「もう1つのコンテンツ」があるのだと再認識させられた出来事でした。