ストーリーテラーたちとの和解

和解も何も、勝手に自分が長い間感じてきた違和感が、ちょっとだけ晴れつつあるように思っているだけだ。聞き手としても、もし語る側になった時でも、積極的に対話に参加することで物語の一部になって、自分が立っている場所からの景色を見つめたい。

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その物語は過去を都合よく書き換えてないか?問題

戦争や災害、事件・事故などの出来事を後世に伝える、いわゆる「語り部」と呼ばれる人々がいる。当事者本人の場合もいれば、家族や関係者の場合もある。被害者の深い悲しみや心の傷を受け止め、他者に共有していく。決して、その人たちの重要な活動を否定するつもりはないのだが、私はずっと、ささやかな違和感を感じていた。それはこういう理由からだ。
『他者と過去は変えられず、変えられるのは自分と未来だけだ』とは、よく言われる定番のフレーズだ。しかし、人間は自分に都合よく組み替え上書きしていくことで、過去を改変している。結局、語り部は、自分自身が咀嚼して、他者に披露できるだけの形に処理している。伝えたい・伝えられることを強調する一方、語りたくない・思い出したくない・場合によっては都合の悪いことには、敢えて触れていないはずなのだ。
その人なりの語りを繰り返しているうちに、まるで観光ガイドのように上手く、流暢に、慣れてしまう。自分が語っている姿や内容が、メディアを通じて拡がり、それをさらに本人が見聞きすることで、語っている本人すら、それが事実だったかのように自己催眠を掛けてしまう。本当のことを語っているのに、どこか嘘っぽく聞こえるのだ。

悲しみや恐怖への防衛本能とわかっていても

恐らく過去の事実が微妙に変えられているにもかかわらず、それが起きた事実のように伝えられているのではないかという、言い出しにくい気まずさのような疑問。無意識または意識的に「最適化」してしまうことで、歪曲とまではいわなくとも、いつの間にか変異しまっているのではないか。当事者本人や近くに居た人ならまだしも、実体験していない人が語り部として活動するのには、さらに違和感を感じていた。
しかし、人がもし、自分が感じた恐怖や悲しみを、感じたその瞬間と同じまま繰り返し続ければ、確実に壊れてしまうはずだ。悲惨かつ衝撃的な体験のマスキングは、人間として当然の防衛本能だ。頭ではそうわかっている。そのことが、さらに複雑な感情を懐かせ続けてきた。
私の身内には、戦争体験の語り部が実際にいる。しかし、私たちは子供の頃、祖父母の世代の人たちに戦争体験を聞こうとすれば、大人たちから『そんなことを聞くものじゃない』という、はっきりしたまたは無言の壁を感じて育った。この矛盾も、自分が長い間、こういったことに関心を持ち続けてきたきっかけのひとつかもしれない。
そんな中、とある2つのコンテンツが、自分の中で偶然リンクした。

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作家と詩人が語る、朗読と対話が持つ言葉の力

一つは、敗戦記念日の8月15日(水)に放送されたラジオ番組だ。作家の高橋源一郎氏が、詩人の伊藤比呂美さんと話をしながら、向田邦子『ごはん』、野坂昭如『年老いた雌狼と女の子の話』、小松左京『戦争はなかった』、石垣りん『石垣りん詩集』の一部を、ゲストを交えて朗読しながら紹介していく。

高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」
http://www.nhk.or.jp/radiosp/sensounomukougawa/

小説やエッセイとして過去に書かれた文章を、リアルタイムに人の声で聞くことで、まるで自分がそう感じたことのように受け止められるようになる。口伝ならではの言葉の力によって、他者が経験したことが、自分の身体の内側に入ってくる。番組を進める作家と詩人本人たちが、そのことを改めて感じていたのが新鮮だった。

Wenders監督が『ベルリン天使の詩』で伝えたかったこと

もう一つは、映画解説者の町山智浩氏による、映画『ベルリン天使の詩』の詳しい解説だ。この作品をまだ観ていない人は、以下の解説を聞く前に、ぜひ観てほしい!

町山智浩の映画塾!「ベルリン天使の詩」WOWOW

この作品で登場する天使は、記憶と記録のアーカイブとしての図書館の機能を果たす。また、語り部としての古代ギリシャの詩人ホメロスが、暗示的に登場する。
作家という立場の人たちは、物語を作って文章に認める。それがメディアで複製されるようになり、広く配布されることが可能になった反面、ノンリアルタイム・非同期型のコミュニケーションになってしまった。
一方、語り部は、あくまでもストーリーテラーであり、物語の作家ではない。リアルタイム・同期型のコミュニケーションとして直接目の前の人に語り掛け、そこで対話が生まれる。単なる事実の羅列ではなく、物語を自己体験として敢えて「演じる」ことで、時に、それを受け取った人の希望や救いにまで昇華する。
これはまさに、先のラジオ番組で語られていたことに通じる解説だったのだ。

常に揺らいでいる自分自身が新たな物語の一部に

ストーリーに耳を傾けているとき、聞き手である自分自身も、実はそこで繰り返される(もしかするとほんの少しだけ新しい)ストーリーの一部になっている。自身を媒体としてメッセージを伝える役割は、まさにメディアだ。
当事者本人の語りがどれほど最適化されていようと、聞き手である自分自身が常に変わっている以上、両者の関係には常に揺らぎが生じている。今夜聞く話は、明日にはまた違ったものとして感じられる。物語を語り継いでいく人が当事者でなくても、最初から抱えている、どうあっても当事者にはなり得ない空虚こそが、聞く人が自分事としてかかわる余地なのだ。
一見、フォーマット化されてしまっているような話でも、違う角度から光を当てたり、小さな疑問で少しだけ揺さぶってみる。自分なりの解釈を吟味したり、時に、新しく掘り起こされた記録を参照する。影になっていたり、欠損した部分を立体的に補完していく。語り部と対話を繰り返していく中で、自然に物語が活き活きと動き出す。そしていつの間にか、語り手・聞き手の双方が当事者になっていく。人を動かすのは、記録ではなく、いつも感情であることに変わりはないのだ。

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