ある閉店する古書店で、コンテンツのアーカイブについて考えた

福岡市中央区六本松にある「古書の葦書房」が年内で営業終了だと知ったので、久しぶりにリアル古書店に立ち寄った。

店の前の狭い路地はよく通っていたが、店内に入るのは初めてだった。2年前の夏に近所から移転して来た店舗だが、元の店に数回行ったことがある程度だ。店内は、閉店を知って来た客で少し混雑しているようだ。一歩足を踏み入れると、狭い空間に積み重なった、枯れた光景や懐かしい匂いが押し寄せる。

大きな書架と人に挟まれた細い通路を、縫うように彷徨う。目に入る多くの本はバーコードや奥付もなく、発行の詳細が分かりそうにない。背表紙が無い簡易冊子や、修復途中と思われる民俗資料も豊富に並んでいる。自分が読んだことがある本が数冊だけ目についたが、まるで誰かに再会したような、気まずい複雑な気分になった。お互い決して若くもないし、とはいって枯れているわけでもない姿を見て、懐かしい以外に特に話すことが思いつかない、そんないたたまれなさだ。

何年も前から、そこに確かにあったのに、自分には縁がなかった本。自分はこれら先人の叡智のほとんどを一生知ることがないのだろう。録画するだけして見ていない映画、書いて出さなかった手紙、下書きのまま捨てたメールと同じ。誰かが伝えたかったメッセージの大半は、その思いを遂げることなく忘れ去られる運命にある。

気まずさの理由は他にもある。背表紙がどこか墓標に見えるのだ。

それはここ数年、自分が買った古本は片っ端から断裁して電子化しているからだろう。最初から電子書籍で買えるならそちらを選ぶので、紙の本をそのまま読む機会は限られる。いつの頃からか、私には古本や古書を扱う書店が、まるで墓地のように感じられるようになった。霊場巡りもこんな感覚なのだろうか。

誰かが書いていたが、紙の本の電子化は食肉解体処理にとても似ている。皮を剥ぎ、背を割り、骨を外して、肉を細かく削いでいく。可食部分以外は、処分に回される。かつて自分も少なからず「生産者」側だった身にも関わらず、私はパッケージにはほとんど未練を感じていない。